|
by mistergreatzebra カテゴリ
以前の記事
お気に入りブログ
最新のコメント
ライフログ
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
2007年 06月 24日
帰ってきたTBリレー小説 『Peach Boy Episode2』 第39話からの続きです。
さる事情で別ブログにて継続。 ***** さて、鬼が島についた3匹を待っていたのは、鬼たちの温かい歓迎でした。鬼たちは顔こそ恐ろしいものの、物腰は柔らかく、とても礼儀正しかったのです。犬Kなどは、 「え~~、あなたたちが鬼さんなんですか?とっても怖いって聞いていたのにぃ~。角が生えてて。」 鬼の一匹は笑いながら、 「あはは、角が生えてて怖いんだったら、奈良の鹿たちは、恐怖の集団になっちまいますよ。あのね、鬼が怖いっていうのは、あの『泣いた赤鬼』の話が伝承されていくうちに、一部分だけがゆがんで伝わって出来た、間違ったイメージなんですよ。」 「へ~、そうなんですか~。知らなかったなぁ。」 と素直に納得する犬K。 3匹には、立派な部屋が与えられ、質素ながらも十分な食事が与えられ、なにやら南の島でのバケーション生活が始まりました。疑い深いトリクッケは、 「どこか間違っとる。こんなことがあっていいわけない。」 と用心の姿勢を崩しませんでしたが、もともと楽天家のランは、 「ま、いいじゃん、なるようになるわよ。」 と気楽なものでした。 1週間ほどがたち、その日も朝から3匹はビーチに寝そべって、トロピカルドリンクに舌鼓を打っていました。すると、鬼の一人がやってきて、3匹にこう告げました。 「総統がみなさんを午餐にお招きしたいそうです。」 「む、ついに来おったな。」 「きゃ~、ごちそうが食べられるのね~、楽しみぃ!」 「あの~、午餐ってなんですか?」 反応はそれぞれでしたが、ともあれ、3匹はそろって、「総統」との運命の出会いの場へと向かったのでした。 ***** そのころ桃太郎は・・・ まだ、亀の背中に乗って、うろうろしていました・・・。 (続く・・・のかなぁ) ☆★☆★☆★☆【TBリレー小説テンプレ】☆★☆★☆★☆ 【ルール(ちょっと改訂あり)】 前の人の記事と企画記事 http://earll73.exblog.jp/5344230 にトラックバックをして小説をリレーして行って下さい 1話の長さは無制限ですが、あまり長くならないように 連続でなければ何度書いてもOKです 【小説連載期間】 50TB(50話)で完結 もしくは、72時間(体感時間です)以内にTBがつかなければ即打ち切り ※このテンプレを記事の最後にコピペして下さい 企画元 毎日が送りバント ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ ちょっとばかりワープして、おとぎの国にいってきました。帰ってきてみたら、地球上では72時間以上経っているようでしたが、私の体の中では、3時間ほどしか経っていません。相対性理論万歳!アインシュタイン万歳! # by mistergreatzebra | 2007-06-24 03:08
2005年 11月 01日
さて、このブログは、とあるブロガー(仮に「あいつ」としておく)の助っ人として出て行くためのブログである。
だが、今回は「あいつ」が別のブログの助っ人として出て行ってしまった。エキブロの書評コンテストに参加するための企画であるわけだが、その後、「あいつ」、自分でもコンテストに参加したいという。まあ、あちらのほうは、厳密には参加してはいないので、二重投稿にはあたらないだろうが、それでも自分のブログでやるのは気がひけるらしい。そこで、ワシが助っ人を頼まれたわけだ。いってみれば助っ人の助っ人というところか? そんなわけで、ちゃちゃっと一日で書いた書評が下の記事。まあ、それなりに悪くは無いと自分では思っていた記事だったが、どうやら、一次選考も通らなかったらしい。しゃーねーな。 だが、審査員のうち、特に仲俣暁生さんが、ワシの書いたものを認めてくださったようで、審査員特別賞というものを下さるという。チョコレートですか?「あいつ」にチョコレートをこれ以上食べさせるのはいささか心配ではあるが、ありがたく頂戴させていただきます。 というわけで、賞までいただいき、講評記事でもワシの記事に触れていただいたので、少しばかり反応して見たい。 まず、嬉しいのは、仲俣さん、豊崎さんともに、この作品へのワシの視点というものを認めてくださっていることだ。ワシは文章は下手なので、いままでこういうものを書くときには、視点とかコンセプトで勝負してきた。今回も、あの作品を「大人子供と子供大人の出会い」として捉えるという見方は、おそらくユニークなものだろうと確信していたが、はたしてその通りだったようだ。そのことをわかっていただけただけでも、あれを書いた甲斐があったと思う。 一方で、ワシのように視点のユニークさで勝負するものにとって、1200字という字数制限は正直辛かった。視点がユニークであると言うことは同時に分かりにくいということでもある。それを十分な説得力でもって説明するには、それなりの字数が必要なのだ。だが、1200字、原稿用紙3枚でそれをやれというのは、ちょっと無理。あの記事で言うなら、本来3000字ぐらいで表現されるべき内容をむりやり削って1200字以内にまとめたものなのだ。初稿の段階では、ワンカとチャーリーの交流がいかに進み、更にそれを作者のダールがどのように多面的に見せようとしていたかを論じて、読者があの本から何を読み取ったかに、読者自身の「子供」の部分と「大人」の部分が投影されるのではということをひとつの結論、あるいはオチとして呈するつもりだったが、あの長さではとてもそれは無理。結果的に中途半端に終わってしまった。豊崎由美さんが「オチが弱い」と評されたのは、その辺からかもしれない。 それにからめて、ひとつ「捨て台詞」を吐くことをお許し願いたい。豊崎さんの、「オチが弱い」というご意見はありがたく拝聴させていただくが、同時に、あの長さでどうやって、「オチのセットアップ」を行えばいいのですかとも問いたい。オチが面白いかどうかは、オチ自体できまるというより、それを効果的に見せるためのセットアップが出来るかどうかに負う所が大きいと思う。書評には「筋を紹介する」、「それをどのような視点から読み解くべきかを論ずる」といった必須の要素がある。それに加えて、オチをセットアップするのに、あの長さでどうすればよかったのだろう。ワシにはわからない。残念ながら、豊崎さんの書かれた物を拝読したことが無いので、豊崎さんが普段オチのある文章をお書きになっておられるのか存じ上げないのだが、もし、豊崎さんが、書評のような評論分におけるオチを「強い」、「弱い」というように、オチのセットアップの環境と独立して論じられるものと考えておられるなら、それは間違っていると思う。 もし、そうしてセットアップなしに、いきなりパンチの効いたオチを出せるとしたら、そのためにはひとつの条件が必要となる。それは、「読者対象がはっきりと絞り込まれている」ということ。読者がどのような人かがはっきりしていて、「顔」が見えていれば、読者とオチのセットアップとなるコンテキストを最初から共有できているので、いきなり、オチを聞かせることも出来る。だが、今回のコンテストでは、読者対象がまったく見えてこなかった。だから、老若男女、読書家からほとんど本を読まない人まで、広く読者を対象をせざるを得ず、コンテキストに共有が出来なかった。 とまあ、生意気なこともいってみたが、自分の書いたものがプロの方に、真剣に読んでいただけたというだけでもありがたいことだ。ワシも人の書いたものを大量に読んでそれを評価するということをしたことがあるあるので、その大変さはよくわかる。それだけではなく、書いた物をそれなりに、認めていただいて(1次予選さえ通過しなかったと言うのに!)、賞までいただけたのは本当にありがたいことだ。これを励みとして、精進させていただきます。 だが、賞品のチョコレート、あいつに食べさせて、本当に大丈夫だろうか?糖尿病になって、仲俣さんを逆恨みしたとしても、ワシは知らんぞ。 ***** ↑ このオチ、仮に豊崎さんが読まれたとしても、何が面白いかさっぱりわからないであろう。そりゃそうだ、これは「ワシ」や「あいつ」が何者かわかった方のみが笑える内輪受けなのだから。これは、読者対象がきわめて狭く絞り込まれた例でやや極端だが、このように、文章のコンテキストが読者と共有されている場合には、セットアップなど無くても、強いオチを入れることが出来る。だが、万人を対象とした文章では、やはり、オチのセットアップがかなり丁寧に書きこまれなくてはならないと思う。そして、それを行うには今回のコンテストではあまりに字数が足りなかったのだ。 # by mistergreatzebra | 2005-11-01 17:09
2005年 10月 11日
チョコレート工場の秘密 ロアルド・ダールコレクション 2ロアルド・ダール クェンティン・ブレイク 柳瀬 尚紀 / 評論社 スコア選択: ロアルド・ダールによる古典的名作、「チョコレート工場の秘密」の物語を一言でまとめると、「子供の心を持った大人と、大人の心を持った子供の出会いの物語」である。 主人公のウィリー・ワンカは、その天才的頭脳で科学の常識を超えたお菓子を次々に作り出し、子供たちの心を掴み取る。彼にそれが出来るのは、その天才故のみならず、彼自身が子供の心をもっているからだろう。自身の心が子供だからこそ、子供が喜ぶようなお菓子を作り出すことが出来るのだ。その、心は子供だが、肉体は老いつつあるワンカは自分の後継者を探そうとする。そして、そのやり方もまた、良くも悪くも子供じみている。金色の券をチョコレートの中に隠して宝探しで世界中を大騒ぎさせるというアイデアは夢のようだが、同時に他人を騒がせて喜ぶと言う意味で幼児的でもある。そして候補となった子供たちを一人一人ふるい落としていく過程には、大人が成長の過程で身に着ける、他人に対する思いやりのようなものがみうけられない。 そして、その子供の心を持った大人であるワンカの行動は、大人の心を持った子供、チャーリーの視点から語られる。彼が見せる貧しい家族への思いやりと、節度ある行動は、子供のそれではない。彼は精神的には立派な大人である。そして、チャーリーの目から見て、ワンカとその工場の中での物語は、夢のような御伽噺でもあるが、同時に、「落伍」した子供たちに対する残酷な仕打ちなど、眉をしかめさせるものでもある。 そして、子供大人のワンカは、大人子供のチャーリーに自分の工場の将来を託す。すなわち、「子供」から「大人」へとバトンが渡されたわけだ。 作者のダールは、この物語を読者の視点によって解釈が異なることを想定して書いているように思われる。もし、きわめて子供らしい子供が、「いい子でいると、素敵なごほうびがもらえるよ」という、きわめてストレートな解釈をしたとしたら、それは作者の狙いのひとつだろう。また、もうすこし大人びた子供がこの物語を「子供であるワンカが最後に大人であるチャーリーにバトンを託す」という、一種の「子供から大人への脱皮の物語」を嗅ぎ取ったとしたら、それもダールの狙うところだろうと思う。さらには、この物語を「子供の心を取り戻したい大人」が読んで、その心をワンカに投影したとしたら、それもまた、作者の望むところであったと思う。そして作者は最後に、ワンカからチャーリーへのバトンタッチを通じて、そうした大人たちにいつまでも子供でいつづけることはできないという示唆をも巧みに行っている。 こうした、子供から大人まで様々な読者が様々な視点から、いろいろな事柄を読み取ることが出来るということが、この本が書くも長きにわたって読み次がれてきている理由なのではなかろうか # by mistergreatzebra | 2005-10-11 02:57
|